手元に一冊の書がある。肺がんステージ4の告知を受けながらも、「それでも、少しの勇気で人生は楽しめる。私から伝えたい、あなたへのメッセージ」を綴った水戸部ゆうこさんのがん闘病記『がんなのに、しあわせ』だ。2018年、44歳の時に、医師からがんを宣告された水戸部さんは、最愛の家族、職場と多くの友に支えられ、今もなお、がんとの闘病生活を続けている。
「病気を患っている方やその周りの方、何らかの事情で生きづらさを抱えている方へ。この本を通して、今度は私自身があなたを“支える仲間”の一人になれることを願って、この本に想いを込めます。そして、しあわせは自分でつくることができる。自分を信じて人を信じて生きましょう」と記した水戸部さんは、「いつも思うことは、人の優しさや温かさの素晴らしさ」だとも綴っている。その水戸部さんに、がん罹患5年後の今をお聞きした。(『週刊がん もっといい日』編集長・山本武道)
■医師からがんを告知され“奈落の底に落ちた”心境に…
「仕事は、秋葉原社会保険労務士法人で事務作業をしておりますが、その傍ら、こじんまりとした組織を立ち上げ、東京・小平市内の公共施設や都内千代田区内の銭湯を拠点に活動しております。5年前に肺がんが見つかったのですが、宣告された時はステージ4でしたので、その時はものすごい衝撃を受けました。当時、二人の子供が小学2年生と5年生でしたし、それに仕事もフルタイムでしたので、“奈落の底に落ちた”というのが正直な心境でした。そこから私の闘病生活が始まったのです」
水戸部さんが、医師からがんを告知されたきっかけは、2018年4月のことだった。
「咳が止まらなくなり、耳鼻科で診てもらったところ、花粉症によるアレルギー反応と言われ薬をもらいましたが、良くならなかったので、内科に行き喘息の薬を処方していただきました。しかしいっこうに良くならず再診でレントゲンを撮っていただいた際に、ドクターの第一声は、『水戸部さん、両肺に白い点々がある。がんかも知れない』でした。別の病院を紹介され検査入院したところ、肺線がんのステージ4って宣告され、さらに専門病院に転院して入院せずに抗がん剤治療を始めました。
ある日突然、がんの宣告を受け、それもステージ4。手術もできないし、放射線治療もできないとわかって、生きる気力も失ってしまい、これからどのように、がんとの闘病生活を計画していったら良いのかいろいろと考えました。精神的にも経済的にも追い詰められる日々が続き、頭の中は、がん、がん、がん…。お友達にも打ち明けられず孤独の状態になっていました」
■子供を持つ患者会のコミュニティーとの出会い
― 人には、さまざまな出会いがある。良き師、良き友等々、水戸部さんは、最愛の家族に支えられながら闘病生活を続けていたある日、こんな出会いがあった。
「がんと宣告された半年後に仕事を辞めて、しばらく仕事をしない生活をしましたが、とにかく孤独で人とのお付き合いも疎遠になってしまいました。だけど子供もいるし、何とかしなければと思い、生きるためにも情報を集めていた時に、ある出会いがありました」
出会いは、水戸部さんにとって生きるための知恵を授けてくれた患者会の存在だった。子供を持つがん患者のコミュニティー『キャンサーペアレンツ』(代表:故西口洋平氏)である。出会いのことを水戸部さんは自著『がんなのに しあわせ』で、こう記している。
「暗いトンネルを彷徨いながら過ごしていた時、出会った患者会の存在にとても驚き、私にとって一筋の光となりました。さっそくがん友達を作り、子供のことを話すようになり、励まし合い、助け合い仲良くなっていきました。そして西口洋平さんにぜひ会ってみたいと思い、オフ会に申し込み、会いに行きました。
とにかく西口さんのパワーに驚かされました。とても明るいのです!そして面白い!闘病中の参加者もとにかく明るいのです!私よりも重い症状を抱えているのに。ですが自己紹介が始まり、自分の病気や家族の話になると涙涙…。そこは皆さん同じ気持ちで、もらい泣き。どんよりしていた私には衝撃的な出来事でした。
そうか、大変なのは私だけじゃない。死をイメージして日々を過ごすより、毎日を楽しく生きるほうが良いに決まっている。お母さんが後ろ向きだと、子供にも影響してしまう。家の中が暗くなってしまうと感じました」
■患者会に掲載された求人広告で現職場と出会い、がん闘病記を発刊
「残念ながら西口さんは、お亡くなりになりましたが、今もなお笑顔で話されているお顔が私の瞼に残っています」と話す水戸部さん。がんに罹患してから、さまざまな出来事があったが、水戸部さんの出会いはまだ続いた。
「そしてその数か月後に、私の父親にがんが見つかり、自身と父親のことで不安が重なり、精神腫瘍科でレジリエンス外来を受診することになりました」
― このレジリエンス外来との出会いが、水戸部さんのがん闘病生活への道を明るく照らしてくれたのだ。
「レジリエンス外来とは、患者が本来持っている力を引き出し、困難を乗り越える心を手助けする医学的手法のことで、過去の自分を洗い出して、頑張ってきたことや辛かったことを赤裸々に泣きながら吐き出しました。すると、すっきりした感じと医師に肯定していただいたことから、とても前向きになれるように感じました」
水戸部さんにとって、さらにラッキーだったことは、『キャンサーペアレンツ』から配信されたメールマガジンに、求人の広告が掲載されていたことだった。
「ここならば、自分のがんのことを隠さず仕事ができると思い、応募し即面接、採用していただきましたが、実この会社が現在、私が勤務しております秋葉原社会保険労務士法人なんです。採用された際に、代表の脊尾大雅さんから、『当社のホームページに闘病記を書いてみないか』とおっしゃっていただいたことから、自分の状況を、仕事の合い間をぬって、つらつらとブログを書くようになりました。ブログの内容は、すべてではありませんが、皆さんに伝わりやすいよう内容をチョイスして、NOTEというサイトにも、さらに詳しい日記を書いています。そんなある日、代表の脊尾さんから、『当社のホームページに綴っている闘病記を本にしないか』とお誘いしてくださいました。と言いますのも、脊尾代表のお知り合いの方が出版社をやっておられていたことで、がん闘病記『がんなのに、しあわせ』の発行が実現しました」
■温もりを感じる『しあわせの帽子』の普及を始める
「多くの出会いによって、いろいろなことが拓けてきました」と話す水戸部さんは、活動の一端を披露してくれた。
「たまたま脊尾代表と福岡にご一緒することになり、現地で帽子を普及している前田則子さんをご紹介いただきました。食事会の折に、どんな思いで帽子作りを始められたのかお聞きしたところ、大切な人をがんで失われたことも、お話しくださいました。私も自身の状況をお話しして、帽子をかぶらせていただいたところ、優しい肌触わりだけでなく、不思議なことに温もりを感じました。
帰京後は、時々連絡する程度でしたが、私が受けている抗がん剤の治験による治療で脱毛することがわかり、そうなったら外出することも少なくなるだろうと思い、『脱毛を乗り越えられる帽子があったら…』と前田さんに事情をご説明しました。すると
前田さんから即OKをいただき、『しあわせの帽子Rincoプロジェクト』が立ち上がりました。
幸いなことに私たちのプロジェクトに、国産帽子を製造・販売されておられる熊本の企業(株式会社ヨシダ)の吉田香里さんが加わり、三人で進めることになったのです。この帽子は、まだ発売して間もないのですが、月に1回開いている『がんサロン〜キャンサーおしゃべりカフェ』の会員さんにご協力いただいてカタログ用の撮影も、啓発セッションにも参加するなど、普及を始めています」
■『がんサロン〜キャンサーおしゃべりカフェ』のこと
― 『がんサロン~CancerおしゃべりCafé』のことですが、銭湯を会場に入浴もされているそうですね。
「がんサロン~CancerおしゃべりCaféは、2022年2月に、私一人で立ち上げました。毎月、小平と千代田で交互に開催し、毎回10名ほどが参加されています。特に千代田区の場合は銭湯を使用させていただいていますが、実は同じ職場に働く社員さんの中に、実家が銭湯を営業されていましたのでお借りしました。もちろん営業時間外ですが、おしゃべり会が終わった後、一緒にお風呂に入っています。当初は、おしゃべりだけで、入浴は想定していませんでしたが、『せっかく会場が銭湯なのだから、お風呂に入りたいね』ということになりました。
私ぐらいの世代だと乳がんの患者さんが多く、術後に複数の人と入浴するのは、心理的にはハードルになってしまうということから、周囲のお友達も含めて入浴に関してアンケート調査をしたところ、8割が「機会があったら入浴したい」でした。貸切りということもあって、そして同じ境遇の方と話すっていうのが、とても安心感があってホッとしたり、時には涙を流す方もおられますし、やって良かったと思っています。
女性の場合は、自分の気持ちを整理しながら親しい友人に打ち分けて悩みを解消するケースが多いですし、しかも病気になると、ますますそうした気持ちが大切になってくると思います。私自身も患者会を主宰していて、ものすごく勉強になりました。体験や気持ちの共有ができることは、簡単そうで難しいじゃないですか。
その人その人の考え方があって、すべてのがん種、進行度合いに対応できるわけではありませんが、不安になった時やどうしてよいかわかなくなった場合に、同じ体験をした仲間(ピア)サポートしてくれるピアサポーター養成講座にも参加しました。ピアサポーターが寄り添ってくれることで気持ちの安定につながり、心強い存在になることを学んだのです。そこで私が思ったことは、そうだ、私でも何か人のお力になれるかなって。だから自分の経験は決して無駄じゃなかった、でした」
<取材を終えて>
1974年生まれ、東京都小平市在住の水戸部さん。2018年に肺がんを発病し、さまざまな人たちとの出会いで交流を深め、2022年2月には、地域での支えあい(ピアサポート)を目的とした集いの場として『がんサロン~CancerおしゃべりCafé』を立ち上げました。
Caféは、小平市内公共施設や職域である千代田区の銭湯で月ごとに交互開催されていますが、「地域に目指した、いつでも喋りに来られる部屋を自治体が音頭をとって開催して欲しいと思っています」と話す水戸部さんは、その理由として「患者さんは、山ほど言いたいことがあっても、どこでも自由に話すわけにはいきません。たとえば病院ではなかなか言えないこともあるし、言いにくいこともあるでしょう。そんなことをつぶやく場をつくりたい」からです。
水戸部さんは、主宰する『がんサロン~CancerおしゃべりCafé』について、「笑顔でお迎えして笑顔で話し合い、時には参加者の一人が、がんや家族のことを涙しながら話されたときには、みんながもらい泣きをしてしまったり…。でもお風呂に入って、お別れする際には、また素晴らしい笑顔を取り戻せる。おしゃべりサロンは、そんな患者会なんですね」と笑顔で語ってくれました。
「人生、何が良いかなんて本当にわかりません。健康でお金や地位があって、しあわせを感じられるとは限りません。しあわせを感じながら生きるって、いいものです」ーがん闘病記『がんなのに、しあわせ』は、こう結んでいます。
水戸部さんを支えてきた最愛の家族、たくさんのがん友、職場、医療機関等々…今もこれからも、水戸部さんは、がんと共存しながら多くの人たちとの出会いを大切に、さらに活動されることを期待しています。
■『がんサロンCancerおしゃべりCafé』:https://sites.google.com/view/cancerosyabericafe/
■『NOTE』:https://note.com/yuko_mitobe/