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編集長からのメッセージ(9月29日)

忘れえぬガンバ大阪初代社長の山田利郎さんとの出逢い

 これまでの記者生活を振り返りますと、実にたくさんの方たちとの出逢いがありました。そのなかのお一人に、ガンバ大阪の初代社長に就任され、釜本邦茂監督とともにチームを率いた山田利郎さんがおられます。Jリーグ(プロサッカーリーグ)が1991年11月1日に設立され、1993年5月15日に開幕しましたが、その翌年に当時勤務していた出版社で関西地区サッカーの応援マガジン『月刊GAM』を創刊することになりました。

 雑誌のタイトルからして、おそらく気付かれたと思いますが、発足した際に関西にはガンバ大阪しかありませんでしたから、一人でも多くのフアンの方々に読んでいただきたいとの思いで、雑誌のタイトルはGAMとネーミングしました。

そうです。GAMBA大阪の応援誌というわけですが、Jリーグは、爆発的に人気を呼びサッカー人口は急増し、大阪万博会場の跡地に建設されたサッカー場を中心に、東京、千葉、横浜など、精力的にサッカー記者として取材に飛び回りました。

 私自身は、サッカーの経験はゼロでしたが、何となくルールはわかりましたので、ガンバ大阪の応援誌の記者として取材していたなかで、グリーンの試合場を駆け巡る選手たちに向かって、いつも大声を出していた方がおられたのです。スポーツ紙の記者さんに、「あの方は?」とお聞きしたところ、「あ~ガンバの山田さんですよ」-これが山田利郎さんとの出逢いの始まりでした。

 サッカー記者として、毎回試合の取材に出かける日々が続いたある日、試合が終わってから山田さんに声をおかけしたところ、とても気さくな方で、いつしか声を掛け合うようになったのです。「山田さん、そのうちに飲みに行きませんか」となり、二人でJR芦屋駅近くの居酒屋で杯を交わすうちに、山田さんの前身は、松下電器産業が初めて海外に進出した功労者であることがわかりました。

 山田さんによれば、松下幸之助創業者から「当社は海外に進出することになった。ついては山田君、行ってもらいたいのだが・・・」と突然切り出され、「君は中南米の松下幸之助になれ!」と諭されたそうで、初の海外赴任者となりました。赴任先はペルー。山田さんは、孤軍奮闘し工場を建設し、働く人たちに昼食を提供するなど、地元の人たちから信頼され成功への道を歩き続けましたが、「実はこんなことがありました」と話していただいたことは、一人の少女のことでした。

 賃金の支払いは週給制で、毎週金曜になると少女のファミリーが集まってきて、笑顔で少女を囲み自宅へ帰って行く光景を見て、山田さんは「涙があふれて止まりませんでした」と話していただきました。少女が勤務してから、やがて美しい女性へと成長する姿を見て、山田さんは「松下幸之助創業者が、なぜペルーに進出を決められたのかがわかりました」と話してくれました。むろんペルーには日系人も多く、これから発展する地であろうこともさることながら、現地に工場を建てることは、地元の人々の雇用機会を増やし、豊かな生活を過ごせるようになるという松下幸之助さんの真のお思いも知ったのでした。

 ペルーには8年間、その後、ブラジルにも7年間在籍し成功を収めた山田さんは、15年間の海外赴任を終え帰国後に海外の責任者を経てガンバ大阪の初代社長に抜擢されたのでした。ガンバ大阪の社長時代に出逢ってから、何度も海外時代の話をお聞きするにつれて、「松下電器産業が初めて海外進出した成功事例を世に残すべきだ」と考え、書にまとめることをお奨めし、実業之日本社から1995年4月に刊行されたのが『松下流海外事業成功の鉄則』です。

 「今でも私の瞼にペルーでの金曜日、給料を抱えた少女を出迎え、ニコニコ顔で家路に急ぐ家族の姿が浮かんでくる」-山田さんは1995年1月、芦屋のご自宅で、こんな文章を後書きとして記されています。その山田さんは、2021年7月7日に88歳で亡くなられ、スポーツ各紙が訃報を伝えました。  

 私と山田さんとの交流はコロナ禍でもあり、再会することはかないませんでしたが、毎年、年賀状の交換は著書を発刊してからですから26年間続きました。Jリーグの試合を見るにつけ、自チームの選手を大声で叱咤激励していた山田さんの顔が思い出されます。

 さて今週もまた、皆さまにとって「もっといい日」でありますように・・・。

      『週刊がん もっといい日』編集長 山本武道

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