がん患者さんと家族のためのWEBサイト

8月25日編集長のメッセージ

6度のがん手術を受けながら88歳まで生き続けた母のこと

◇最初は子宮がん、そして乳がんとリンパへの転移 

 私の母親に、がんが見つかったのは30代のころ。子宮がんでした。幸い母の症状はさほど重篤ではありませんでしたが、患部を取り去り安心したものの、数年して今度は乳がんになり、当時、医師からは乳房温存という話はなく、乳がんを除去した部分は予想以上に広く、大きくえぐられていました。とても痛々しかったのですが、むろん素人の私には何のサポートもできなかったことが悔やまれます。

 手術を受けて自宅に戻ってきた母の左胸は、もちろんなくなっていましたが、しばらくして胸は元の大きさに戻っていました。人工パッドはあろうはずはなく、専用の下着もなかった時代、母はガーゼに綿を詰め込んだ、オリジナルのブラジャーを作ったのでした。「胸がなくなり骨が浮き出た状態では車内で人に押されると、ものすごい痛みが襲ってくるの」と母は、よく話していましたが、こんなことを体験したことで、自分なりにオリジナルのブラジャーを製作したのでした。

 混雑した電車で通勤の日々が続くなか、ある日、「何となく体の調子がおかしいし、削除した患部の反対側の脇にしこりができている」と言い出し、かかりつけ医の診察を受けたところ、「ひょっとしたら・・・」といわれ、念のためにレントゲン撮影をしたところ、右脇のリンパに三つ目のがんが見つかったのでした。このときにも母には落ち込むことなく、「すぐに切除してもらおう」と気丈な母は大学病院で、即手術を受けました。

◇胃がん、大腸がん、口腔がん、7度は食道がん・・・

 母のがんは、これで終わりませんでした。胃がん、大腸がん、口腔がんと立て続けにがんが見つかり、その都度、手術を受けましたが、「なんで私だけ、こんなに手術をするの?」と、がんという言葉は母から聞かれましたが、がんという言葉は聞かれなくなりました。

 それは、われわれ家族が、3度目の手術の後、体調を崩して医療機関にかかった際に、「またがんです」と宣告されれば、幾ら気丈な母であっても落ち込むと思っていましたから、医師には「母には、がんを宣告しないでほしい」と話していたからでした。

 そして、ついに7度目がやってきました。以前から食べ物がのどに詰まると話していましたから、一度見てもらおうと、いつもの病院に行き母は同席せずに私が主治医と話し合いました。「先生、母はひょっとしたら食道がんですか?」「そうです。間違いありません。ただお年がお年なので、どうしますかね」「だったら、もう手術をしないでほしい」と主治医にお願いしました。「そうねえ、今すぐに手術をしなければならないわけでもないし、それに進行が遅いから・・・」

 結論は、「状況を見て・・・」となり、母にはむろん「がん」であることは言いませんでした。でもよくよく考えれば、立て続けに手術したこと自分は「がん」であったことは知っていたのではないかと思います。

 結局、母のがんとの闘争は88歳まで続き、7度目の手術はすることなく、自宅で亡くなりました。認知症にならず、寝たきりにならず、亡くなる朝のことでした。「今日だけは行かないで・・・」と手を合わせた母を残して、何となく後ろ髪を引かれる思いはありましたが、私は人に会うために家を出ました。これが、88歳まで長生きした母の姿を見た最後になってしまいました。

 母は何となく自分の最後を感じていたのではないかと思いますが、そんな気持ちの母、一瞬悲しそうな顔をした母の優しかった目が今でも忘れられません。「なんで、亡くなるまで一緒にいられなかったのか」と思いました。

 最終的は、母を看取ったのは私の妻でした。妻と笑顔で話していた母の様子がおかしいと、一度、訪問診療に来ていただいた医師に連絡し、即駆けつけていただいたのですが、間もなく人生の幕を閉じたのでした。

 6度のがんを乗り越えた母親の人生。10人兄弟・姉妹の中で、最も長く生きた母。いったい長生きの秘訣は何だったのか考えると、「お医者様の指示通りにすること。そして三度三度の食事は欠かさないこと。子供と孫に囲まれて楽しく暮らすこと。時々旅行に連れて行ってもらったり、好きなテレビ番組を見たりかな・・・」と、そんな母の声が聞こえそうです。最期までお読みくださりありがとうございました。

 さて今週もまた、皆さまにとって「もっといい日」でありますように・・・。

                       『週刊がん もっといい日』編集長 山本武道

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